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白洲次郎 占領を背負った男 北康利 著。2005年7月上梓。 (2016年6月7日読了)

  • toyonobunkyokai
  • 2016年11月14日
  • 読了時間: 3分

白洲次郎=明治35年(1902年)兵庫県生まれ。神戸一中卒業後、英国ケンブリッジ大学に留学。戦前、近衛文麿、吉田茂の知遇を得る。戦後は吉田茂の側近として終戦連絡事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官を歴任、日本国憲法制定の現場に立ち会った。また、いち早く貿易立国を標榜し、通商産業省を創設。GHQと激しく対峙しながら、日本の早期独立と経済復興に、“歴史の黒子”として多大な功績を挙げた。昭和60年没(享年83)。紳士の哲学“プリンシプル”を尊ぶイギリス仕込みのダンディズムは終生変わらなかった。妻はエッセイストの白洲正子。(Wikipedia抜粋)

エッセイイストの白洲正子の夫として知られる白洲次郎。戦前にイギリス留学し、当時としては珍しい国際感覚を身に着けた紳士。戦後には吉田茂の側近として活躍し、平和憲法、日米安保条約締結に力を発揮した。

 白洲次郎という人はとてもまっすぐに生きた人であろう。生きた時代は戦争前後の混迷期であり、吉田茂との出会いによって大きく日本の将来に寄与することになった。しかし、世が違えどもこういった人物は表に出てくるであろう。好人物であり、ファンも多い白洲次郎とはどういった人だったのだろう。  青年期は正子との恋。まっすぐに愛を告げ、父親に「正子さんをいただきます」と宣言する。一見”ちょい悪オヤジ”風の紳士だが、晩年になっても正子を大切にし、ともに肩を寄せ合い生きた。そういうまっすぐで誠実さを持っていた。戦中には東京で焼け出された友人を特に期限を決めることなく、逗留させている。戦後の食糧のない時代にである。非常に人間味あふれる人物だったのではないか。

 そして紳士であること。「プリンシプル」と言われるイギリス貴族の哲学をそのまま地でいったことがあちこちに見られる。普段は田舎暮らしでも国が道を外しそうになれば中央に戻り、正しい道に導いていく。そんなイギリス貴族の考えを身に着けている。物言わぬ日本人の中でいいたいことを偽りなく発し、マッカーサーに「従順ならざる日本人」と言われた背景には、そういった思考がある。プリンシプルに生きることは、軸をもってブレなく生きること。次郎の生き方は、そう教えてくれる。

 平和憲法制定、日米安保条約締結と大きな成果を上げているが、通商産業省を発足させて世界で商いができる日本を生み出し、首都圏の電源供給のために只見川ダム建設に力を注いだ功績は大きい。そのいずれもが戦後復興を支え、いまの日本経済の礎となっている。それほどの偉業を行いながら、なぜ戦後史に目立った名を残していないのか。次郎は行ったことを誇らない。いくつもの役職に就いたが、目的を達成するとその場はすぐに後進に譲ってしまう。名を遺すでなく、今を生きた。

「葬式無用、戒名不要」

晩年の次郎がインタビューに答えてこう言っている。

「死んだらクサルということだ」

言葉にしてしまうと非常に野蛮な印象だが、本質は違う。死後のことなど考えず、今を存分に生きるということ。次郎の葬式は行われず、赤坂のマンションの次郎の部屋で近親者が酒盛りをしたという。最後まで粋である。

本書の中でまさに今の日本の教育を物語っている箇所がある。

「日本人は大体話がつまらない。大学の講義を筆記して丸暗記して、その通り書くと100点。そんな馬鹿なことが世の中にあるものか」

「自分で考えるということを教えない」

「教師が自分で考えることをしない」

​どうだろう。私には非常に胸に刺さった言葉である。

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