心に神を抱くと…
- 2017年6月6日
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信者さんと話すと、自分を見つめなおすことがよくあります。
よくあるどころか、話すたびに自分に問いかけます。
信仰とは何なのだろうか
神とは何なのだろうか
人それぞれのとらえ方があります。
現代社会において、神の存在は希薄になっています。
太陽が昇り、沈むことのありがたさ、日々健康に生きていることのありがたさ、家庭が平安で幸せであることのありがたさ。そういったありがたいという状態を意識することなく、会社に行き、働いて、食事をし、家に戻り、家族と過ごています。それをダメだというのではなく、ちょっと意識することが大切だと思います。
以前、知り合った方は「ありがたい」=「有難い」と話され、「有ることが難しい」状態、それは普通のことではなく奇跡だといいました。
信仰とは、こういうことだと思うのです。
この方は前述したような当たり前の生活の中で「ありがたい」ことを「有ることが難しい=奇跡」と解釈され、日々をありがたく過ごされています。天理教ではこういったことを「神様の守護」ととらえますが、他宗教においても同じような解釈をします。また神を信じない人も、何かわからない壮大な存在(自然)を意識し、敬うことがあるでしょう。こういった思いは人類が誕生した当時から存在し、シャーマンであったり、天皇であったり、法王であったり、仏陀であったり、キリストであったり、マホメットであったり、それこそいろんな形をとって、人の間で大切にされてきたんだと思います。どういった呼ばれ方であろうと、人類の歴史の中で神や自然の存在は敬うべき対象であり、尊い存在であったのです。
今の世にあって信仰とは、どういったものだろうかと考えます。
それは、心に神を抱くことではないでしょうか。
本当に神がいるのかといった議論ではなく、心に神を抱くことのメリットを見るべきだと思うのです。私は教会に生まれ育ちましたが、「教会の長男」と言われ、見られることが嫌で反発し、20年以上も教会に近づきませんでした。そんな私が教理にふれ思ったことが「神を心に抱く」ということです。人と話すとき、行動を起こすとき、いろんなシーンで心の中で神に問いかけます。「本当にその行いでいいの?」と。そうすると、道にゴミが落ちていた時、外国人が道に迷ってあたふたしていた時、子供がいうことをきかない時、いろんな「時」の行動が変わってきました。
私は天理教の信徒でありますが、他宗教を否定することはありません。
どんな教えであっても、目指すところは人類の幸福だと思うからです。
どんな神でもいいので、心に神を抱いてみてほしいと思います。自宅に神棚や仏壇があれば、前に座り、自らを見つめなおしましょう。神棚や仏壇がなくても、朝の太陽、沈む太陽、明るく照らす月など対象を自分で決めて、自らを見つめなおすきっかけにするといいでしょう。
そうすれば、人はもっと優しく、争いのない世界に近づけるのではないでしょうか。
そういう気持ちになれること、行動が変わることが信仰のメリットなのです。






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